コラム

第三大友丸事件 ・・・太田耕治弁護士の思い出に残る事件

太田は刑事事件はあまりやりませんでしたが、どんな事件も興味を持ち真実の追究に全身全霊を上げて取り組んだのは民事も刑事も同じでした。第三大友丸事件もその一例です。

発端:

平成8年6月16日午前11時15分頃、船頭の杉浦友三郎さんが釣船第三大友丸を操船して師崎港に向かい羽豆岬沖羽島灯標近くにさしかかったところ左前方からオールや水筒、釣り竿が流れてきた。しばらく走ると手漕ぎボートが見えた。異変を感じボートに近づくと釣り人が頭から血を出して倒れていた。近くにいた第二浜広丸と第二大友丸に救助を頼み杉浦さんは先に港に戻り救急車を呼んだ。救助された釣り人は病院で治療を受けたがその晩なくなられた。
 杉浦さんは要するに第一発見者であり救助に協力したのであった。
 ところが感謝されていたはずの杉浦さんが、1年8ヶ月後、第三大友丸をボートに衝突させたとして業務上過失致死で起訴されてしまったのである。



羽豆岬沖、羽島灯標(黄色の灯標)付近。

右奥が師崎港。遠くにチッタ・ナポリが見える。

 

目撃証言の評価:

名乗り出た別のボートの釣り人2名は第三大友丸がボートに衝突したと供述したが、詳細は曖昧で、船名を間違えて供述して後に訂正するなど矛盾した点が多く、しかも衝突の瞬間そのものは見ていない。200mも離れており第三大友丸が救助のため接近したのを衝突したと見誤ったか、別の船が衝突したのを見たが船名を第三大友丸と誤って供述したのである。なお2名は当初衝突したのは第二大友丸であると供述していたところ第三大友丸の間違いでないかと取調官に誘導されて訂正していた。200mも離れているのに船名まで見えるのかも大きな疑問である。
一方第三大友丸の釣り客3名は最初にオールや水筒、釣り竿が流れてきたことを現認していることで一致している。その後ボートに接近したが様子を見るためであり衝突していないと述べている。3名とも社会的に責任ある立場の方であり事故死という重大事件で被告人を不当に庇うようなことは考えられない。
 第三大友丸がボートに接近する前にオール等が流れてきたというのは何を意味するのか。オールや水筒、釣り竿がボートから海に落ちたのは衝突の衝撃のためである。第三大友丸が接近する前に衝突が起きていたことはこの一事を持ってしても明らかである。

判決:

判決は無罪であった。新聞、TVで大きく報道された。
 判決ではボート釣りをしていた目撃証人の評価として衝突したと述べるが曖昧で矛盾もあるとし塗料も一致している箇所もあるが矛盾もあり他の船が衝突した可能性を否定できず、第三大友丸が衝突したと認定するには未だ合理的な疑いが残るのであって無罪を言い渡すというものであった。
 証拠不十分。いわゆる灰色無罪である。
 第三大友丸は衝突していない、判決は身の潔白を明らかにしてくれると期待した杉浦さん、弁護団の期待とはほど遠いものであった。塗膜の層の違いが逆に無罪を証明していることや先にオールが流れていたことは先に衝突が起きていたことの証拠であることには十分の検討がされていなかった。
 判決に検察庁は控訴せず一審で無罪が確定した。

エピソード:

杉浦さんは大正13年生まれで戦時中は応召し従軍しておられた。戦後は漁業に従事し漁協の理事も務められた。地域のリーダーであった。
事故を聞いた師崎の漁師は衝突した船を探そうと漁を休んで豊浜や日間賀島などで聞き込みしらべたが見つからなかった。裁判では杉浦さんを励ますために全公判にマイクロバスで地元の方が沢山傍聴に来られた。
漁村の地域共同体の結束の強さと杉浦さんが信望があることを痛感した。
勝訴確定後、「活魚料理大友」で祝勝会が開かれた。また杉浦さんに船頭をつとめていただき釣りにも連れて行っていただいた。私もお相伴で連れて行っていただいた。
杉浦さんは「ずっと国に奉仕してきたが裏切られた。」「今後は保安庁から救助要請が来ても協力できない」と言い続けておられた。冤罪で受けられた傷は大きかった。

(弁護士 渡邉一平)